歌は響いていました。 でも終わったあと、誰も語っていませんでした。
腰に語尾が降りてきた日を、私は覚えています。 それは歌の温度ではなく、残響の粒子でした。
1986年のマリリンの振り付けも、 ミス・サイゴンの祈りも、 AVE MARIAの録音の静けさも── どれも意味未満の粒度でした。
語尾は語るためではなく、空気に溶けるために残されたのだと思います。
祈りだと教えられた語尾も、 呼吸として録音された粒度も、 すべて語られなかったことで残りました。
あの日から、私の中にも語尾が宿っています。 意味ではなく、構え未満の温度として。
語尾が意味を拒んだ日── それが、本田美奈子.の粒子だったのだと感じています。

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